北原掃部助

『天に吹く』
北原掃部助(きたはら かもんのすけ)
生誕死没不明

称名墓誌によると、掃部助は関ケ原の合戦に馳せ参じ参戦するも、徳川方に捕らえられ首をはねられる直前に『最後に天吹を吹かせて欲しい』と頼み吹くと、そのあまりに綺麗な音色と、掃部助の堂々とした態度に、敵の徳川方から、これ程綺麗な笛の音色を奏でる人間を殺すのは惜しいと命を助けられ、薩摩まで帰郷が許された。北原家でその天吹は助命器と名付け子孫に伝えたと残る。また掃部助は天吹を持ち帰ると切腹したと言う説もある。

掃部助の名称は官位と推定されわからない事が多いのですが、武のイメージが強い薩摩の中で自分の最後と覚悟を決め天吹を吹いた、北原掃部助の思いを島津義弘公、火縄銃・剣術の達人と同様に作り残したいと思い制作した。
掃部助の甲冑・刀なども存在したものは不明で、天吹も明治の初めに無くなってしまったそうで、全て想像により制作しています。

北原掃部助の装備 甲冑・天吹 等の解説

八間筋兜
鉢は鉄8枚を張り合わせた当世風の8間筋兜とし前立ては払立式とする。捉えられ兜を脱ぎ肩からかけた兜は本来は前立ても外すのが一般的ですがあえてそのままにしました。
又他の兜の後ろにも見られる赤い総(ふさ)は元来神社の神殿の四隅等に結界としておかれる魔除で、転じて後ろからの矢や鉄砲の弾が当たらない様にとの願いを込められて多くの兜の後ろに付けられている。
頭の天辺にある穴は元来、平安、鎌倉の頃、この穴から丁髷を出して上と顎の二か所で兜を固定しましたが、兜の固定形式が現在の警察や自衛隊のヘルメットと同様の顎の前と顎の下で止める究極の形になっても、その穴と穴の周りの金具八幡座は残り、金具の八幡座には八幡神(大菩薩)を乗せ戦いに望み験を担いでいました。

胴 黒糸威仏二枚胴
前後一枚ずつの板を叩いて作る仏胴といわれる胴で、等身大甲冑の制作は技術と手間を要します。(一部量産用の桶側胴に下地を盛り仏胴にするものは別)今回も鉄一枚を叩いた仏胴を革包みとしました。又兜シコロ・草摺りを室町期の甲冑の伝統を継承し進化させた切り付け小札とし、最下段には純金の粉による金泥塗と言う当時の甲冑に使用された塗りを施し正絹の黒糸で威しています。


当世具足が主流になりだすと弓矢の頃に重視されていた側面の防御は重視されなくなり、袖は極端に小さくなるか、袖の無い甲冑も多数見受けられます。この甲冑は、その事を踏まえ袖は無しとしています。

小具足(籠手・臑・佩楯)
籠手・臑は篠で籠手の上部はカルタ鉄。佩楯もカルタ鉄で機動性を重視しています。

大小刀
捕らえられた掃部助は大小、刀は既に敵に渡し、斬首される覚悟を決めています。

天吹(てんぷく)
長さ約30㎝前後の尺八を小さくしたような竹の縦笛で、小鳥のさえずりに例えられるような高い綺麗な音色を奏でます。鹿児島では食としても人気のあるコサン竹(ホテイチク)を素材とするものが主流で(一部真竹もあるらしいです)、根本付近の三節(竹の節が3つ)5孔(表に4、裏に1の穴)からの作りで、「竹はコサンの3年竹で、いっびらにまがい」との言葉も残り、一に平たくニに曲がっているものが良しとされているようです。一般的に薩摩武士達は秋の季節に自分達で竹とりからはじめ制作し、特に郷中教育が見直された幕末から明治になると勉強の妨げになると禁止令が出る程の人気で、薩摩琵琶と共に天吹はより多くの薩摩武士達から愛された楽器で、現代でも鹿児島県指定無形文化財に指定され天吹同好会等の団体等により伝承されています。

天吹と一節切(ひとよきり)
一節切は長さ約34㎝前後で、尺八の前身と言われ、天吹と非常によく似ていますが真竹の中心部を使い、一節(竹の節が1つ)5孔(表に4、裏に1の穴)からの作りで一節切(ひとよきり)の名はこの節が一からつけられたのでしょう。一節切は武田信玄が褒美として家臣に与えたり、乃可勢(のかせ・のかぜ)と呼ばれる一節切は織田信長⇒豊臣秀吉⇒徳川家康へと渡っています。薩摩でも島津貴久・義久・義弘・家久(忠恒)公等も、一節切を吹いたと伝わり(一部天吹とされているものもあるそうです)、特に島津義久は名手だったとされています。室町末から桃山・江戸初期にかけて当主達が奏で、また褒美として家臣団に与えていた一節切を吹くのは恐れ多いと、薩摩独自の天吹がより広く多くの薩摩武士達に広がり愛されたのでは無いかと筆者は考察しています。