島津義弘

『望郷』
島津義弘(しまづよしひろ)
生誕
天文4年7月23日(1535年8月21日)
死没
元和5年7月21日(1619年8月30日)

この作品は、文禄の役の休戦前、60 歳を手前にして次男である久保を失った義弘公が、朝鮮巨済島の倭城(日本 の武将達が建てた城や石垣)にて、海の向こうの故郷、薩摩を見つめ、久保と最愛の妻宰相殿に想いを馳せている所を再現しました。文禄の役では、薩摩から兵や船が来ず、一部商船を借り渡航したとも伝わり、義弘公は「日本一の大遅陣となり、自他の面目を失い無念千万」と義久に手紙を送っています。豊臣秀吉からの信頼も厚く、他の武将達からの評価も高かったであろう義弘公の無念をこの手紙から察する事が出来ます。
当初、加藤清正・小西行長をはじめとする日本軍の勢いは凄まじかったのですが、朝鮮水軍が日本の輸送船団を襲いだすと、食料不足からの栄養失調、西国の武将達が経験した事の無い寒さ等から疫病も流行し、日本軍は徐々に消耗し、久保もわずか 21 歳と言う若さで巨済島にて命を落としてしまいます。
義弘公は久保と朝鮮に 7 匹の猫を連れて行きました。猫の瞳の形から時間を合わせたとも伝わっていますが、当時貴重な猫達は大いに薩摩武士達を癒し、皆から愛された事でしょう。 特に久保はその中の 1 匹であるチャトラ猫を可愛がっていたそうで、今でも鹿児島ではチャトラ猫を久保(ひさやす)のヤスから「ヤス猫」と呼んでいることからも、わずか 21 歳で亡くなった久保もどれ程皆から愛されていたかが伺えます。海外遠征は猫達にとっても過酷だったようで、日本に帰りつけたのはわずか 2 匹。この時の猫達は、仙厳園の猫神社にて今も供養されています。
義弘公の生涯は厳しい戦いの連続でした。面目を失い、異国で最愛の息子を失うという苦境の中でも、息子が可愛がっていたヤス猫と共に海の向こうの故郷を想う姿には、合戦で見せる以上の強さがあった事であろうと、当時に想いを馳せながら作成しました。先に述べた通り、その後の慶長の役では秀吉の死後の最終局面で、明・朝鮮の大連合から日本軍の撤退の殿 (しんがり)を務め、徳川家康にして「前代未聞の大勝利」と言わしめる程の大活躍にも、その強さが裏付けされています。

島津義弘公の装備 甲冑・太刀・槍 等の解説

鯱兜
島津義弘公が朝鮮出兵後無事帰還したことを喜び、薩摩硫黄島、熊野神社に奉納したと伝わる鯱(シャチホ コ)兜をアレンジし再現しています。
同時期に義弘公が枚聞(ひらきき)神社に奉納した胴丸鎧一式や関ケ原で甥、島津豊久が着用したと伝わる腹巻鎧、島津四兄弟三男 島津歳久伝の胴丸鎧一式等を見ると、島津家は鎌倉からの名門の誇りから、伝統的な室町期の甲冑が目立つのですが、当時、特に自信のシンボルとして特徴を持たせた最先端の当世具足(とうせいぐそく *今風の鎧の意味)の変わり兜、特に秀吉軍団の長、豊臣秀吉 唐冠(とうかん冠を模した)兜 馬藺(ばれん 太陽の後光のような植物)後ろ立て、加藤清正の高烏帽子兜、福島正則の一の谷(断崖絶壁を模した)兜にも勝るとも劣らない意匠で、現代で目に出来る鯱兜の中でもその表情や作りは群を抜いており、この意匠は薩摩国内で作られたものとは思い難く、上洛していた義弘公又は、先に人質として真田幸村と同じ様な境遇であった、久保が秀吉等の協力や応援を受け作った変わり兜の可能性が感じられます。
鯱は水を司る眷属(けんぞく)で織田信長が安土城の天守に鬼瓦を置いて火を消す、火をつけないと言う願いを込めた事から、後の全国の城に(名古屋城、鶴丸城等)見られますが、水を司る鯱に初の海外遠征の渡航・海戦の無事の願いを込め朝鮮出兵用に作った兜の可能性も伺えます。尚、鯱のヒレは簡単に取り外しが効きます。(落馬等の衝撃での頭、首の負担が少なくなるような実践的な意味合いもあります。)

魚鱗二枚胴
竹中半兵衛(たけなかはんべえ)所用伝の胴を基に想像し制作。
兜のみの奉納と記録されていることから、胴は当世具足だろうと言う事位しか想像できないので、鯱兜に一番合うであろう、秀吉の軍師であった竹中半兵衛所用伝の鱗鎧を基にして制作しました。

小具足(籠手・臑・佩楯)
想像にて制作。
現物は現存しておらず、騎馬戦を得意とする義弘公に合わせ、枚聞神社に奉納されたと伝わる堅牢な三枚(板三枚で形成される)臑とし(乗馬する足の位置が高くなり払われやすいので)、籠手もあわせて三枚籠手にし、佩楯は胴に合わせ鱗を使用しました。

太刀
島津忠恒(家久)佩刀の太刀を基に想像し制作
朝鮮出兵時、義弘公は豪剣・西蓮や有名な朝鮮兼光などを佩刀していますが、朝鮮兼光の拵えは家臣団とも変らないほど飾り気のない質実剛健な作りの為、全体にバリエーションを持たせる為、公の三男である島津忠恒(家久)が佩刀した太刀から丸十の家紋を除いたものを制作しました。刀身も金属製で目抜き釘を外すと、刀身、鍔、切羽2枚、柄に分かれます。 調所一郎氏 著薩摩拵を参考。

鎧通し(短刀)
当時の物を参考に制作しました。太刀と同様刀身も金属製で抜けます。


日本号のサイズを基に想像し制作。
前線の戦いで使われる武器が弓矢から槍・鉄砲に移り変っていった時代。義弘公も槍を得意とし木崎原の戦いでも馬上にて槍で敵将を討っています。
秀吉軍団には賤ケ岳七本槍とうたわれた有名な 7 人の武将達(福島正則(筆頭)・加藤清正等)がいましたが、 薩摩にも関ケ原敵中突破で活躍した「小返しの五本鑓」とうたわれた 5 名(川上忠兄、久智、久林、押川公近、久保之盛)がおり、槍は当時薩摩でも重要視されていた事が分かります。
当時、薩摩の槍術は天流槍術という記述も見られますが、義弘公の槍術や使っていた槍がどのようなものであったかは分かっていません。私が今まで見てきた薩摩の槍の穂先は比較的小さなものが多かったのですが、義弘公と朝鮮・関ケ原を共にした中馬大蔵(ちゅうまんおおくら)のものと伝わる槍の穂先は大きなものとの事なので、義弘公も相応しい、日ノ本一の槍とうたわれた日本号(黒田節で福島正則から呑み取った天下三槍)をもとに同じサイズの槍を作りました。