東郷重位

『ひっ翔べ』
東郷重位(とうごうちゅうい)
生誕 永禄4年(1561年)
死没 寛永20年6月27日(1643年8月11日)

耳川の合戦での重位 18 歳の初陣を再現してみました。
耳川の戦いで島津軍は後にお家芸と言われる釣り野伏の戦法を使います。この戦法は正面に精鋭を揃えながらも敵に勝てない少数の釣りと言われる部隊が、囮とは思えない奮闘を見せながらも多勢に無勢であるが故、時には徐々に、時には将の号令で一気に、左右に味方の伏兵が待ち伏せる場所へと誘い込み、そこで後退していた囮の部隊も反転して逆襲し、一気に三方から攻めかかると言う戦法です。
島津軍は特にこの時、敵を湿地や河川に追い込み、そこで一気に叩く事が多かったようで、当初から剣術も強かったであろう重位は、一気に敵の中枢をせん滅させる伏兵として、まさに川に追い込まれた敵将の首級をあげる直前を表現してみました。

剣術として跳んで斬りかかると言う事が果たして有効なのかは疑問もありましたが、18歳の初陣が薩摩島津の明暗を分ける大合戦で不安や恐れもあったであろう重位に、薩摩の『泣こかい、とぼかい、泣こよかひっとべ』の精神を重ね、現在鹿児島県民の誰もが知っている気合の言葉「チェストー」のルーツでもあろう、示現流・自顕流の猿叫を発しながら突撃する姿こそが、後の薩摩島津77万石の礎と思い制作しました。

東郷重位の装備 甲冑・太刀 の解説

兜 十六間阿古陀形兜
鉢は関ケ原の柏木源藤や北原掃部助の頃の兜と比べると、古い室町期の阿古陀(瓜)形兜で、この形の兜は上空からの来る無数の矢から体を守る為、傘シコロと呼ばれる水平に近いシコロが取り付けられているものが多いのですが、剣術を得意とした重位のシコロは島津義弘公が枚聞神社に奉納した阿古陀兜に見られるシコロと同様の、袈裟斬り等から首を守る事を目的とする富士山型の日根野シコロを取り付け、古式の胴丸、腹巻から当世具足への変化の過程を表してみました。又眉庇も柏木源藤・北原掃部助のものに比べると垂直に近い角度で、平安~室町末期までの眉庇が垂直に近いのは、馬上戦で下を見る事が多かったであろう事と、水平に近い角度で飛んでくる矢から目を守る防御の為と推測しますし、桃山期~関ケ原の戦いを経て江戸期の兜の眉庇が45度から水平に近づいて来るのは長期移動遠征等から歩行戦が主流になった事、多くの徒歩(かち)武者が兜を被るようになったこと、弓矢にとって代わり槍の頭上からの叩き落としから顔を守る為の2点の理由が大きかったと考察しています。
兜は胴よりも古く、父から譲り受けた古式の兜を、得意の剣術が発揮できるようにシコロを最新版に変えた想定をしています。

胴 蓬糸威二枚胴 当世袖
伊予地方(愛媛県)で考案された伊予札と言われる札(さね)を組み合わせた胴で、室町期に全国的に広がり戦国武将達も多く着用している胴で、兜は父から譲り受けた古いタイプを改良した想定ですが胴は新しい時代の二枚胴形式で重位の初陣にあわせて作られた想定です。糸は正絹の蓬糸で威しています。

小具足(籠手・臑・佩楯)
籠手・佩楯も古式に見られる瓢箪を模った瓢で、臑当は堅牢な鎬つきの篠臑で全て鎖で繋がれています。

大小刀 薩摩拵
耳川の合戦で薩摩拵が登場するのは早いと思いましたが、東郷重位は自ら示現流に見られる薩摩拵の特徴のある刀の鍔を作り残していますので、今回、東郷重位にはその現存する鍔を再現し、また柏木源藤共に薩摩
拵の特徴をもたせ作成しています。調所一郎氏の書、薩摩拵を参考に簡単に今回制作で取り入れた薩摩拵の特徴を以下に記します。

一般的な刀より柄は長く、形は特に示現流、自顕流には内反(逆反)のものが多い。自顕流は柄に右肘をつけ構える。装備として柄に鮫革(白色)は巻かず、何も巻かずそのまま木に黒漆を塗ったものや、牛革に黒漆を塗ったものや
緞子(どんす)等の布を巻くものが多く、柄巻も平巻のシンプルなものも見られる。
金具
頭・縁等の金具も多くが無地で、目抜き金具も無い質実剛健のものが多い。薩摩筒の金具も共通しています。
・鍔
受け(防御)の無い示現流、自顕流の鍔は手の抑えや、斬った血が柄に落ちない程度の機能しか必要なく小さい。また東郷重位自作の鍔も全く装飾が無く「刀は抜くべからず」の教えの通り紙縒りや糸で刀を抑える穴が二つ開いています。
幕末・明治になると特に桐野利秋等、特に自顕流の薩摩武士達が朱鞘を差し薩摩拵えの特徴となります。朱鞘を初陣の東郷重位がさしていたとは思い難いのですが、黒鞘だと面白味が無いので、そのことを踏まえ黒塗の鞘に朱を入れて研ぎ出の鞘にしてみました。

サラシ 薩摩兵児帯
今回、義弘公はじめ全ての薩摩武士達に胴締めとしてサラシを巻きました。私がサラシを意識したのは中学生の頃、島津義弘公に端を発すると伝わる川内大綱引に参加した時で、大綱引きはサラシを腹に巻く事が暗黙の決まりで、何も知らない私と同級生は買ったサラシを半分に切って分けて腹に巻いていた所「サラシは一反巻かんといかんど」と先輩に注意された事を今でも覚えています。又現代、私も甲冑を着て鹿児島から伊集院までを歩いている妙円寺詣りでも、先輩方はサラシの締め方には独自のこだわりの伝統を引き継いでいます。鹿児島神宮の故・川上宮司からは、薩摩には木綿一反を戦場に持参すると言う軍律があったと言う話を聞いた記憶も残っています。木綿の布は当時国内で作れず、朝鮮等からの舶来品で絹以上の貴重品でしたが、戦いの衣類としては最適で、室町期以降急速に全国に広がります。戦国の薩摩・大隅でも木綿の大切さは早くから理解されていたようで、妖怪を代表する大隅出身の一反木綿も、死んだ後に故人が付けたサラシを吹き流しのようにして墓に立てた事や、戦の後に胴に巻いたサラシを洗濯して干していたもの等が、飛んでしまい妖怪に見えたりと、薩摩大隅のサラシ率が爆上がりして生まれたのではなかろうかと推測しています。サラシの締め方も妙円寺詣りのこだわりや、明治・大正・昭和初期の薩摩の武者行列の写真、他国(薩摩・大隅以外)の胴締めの緒等を参考し、又合戦の時にいかに合理的に機能するか等を考慮して、今回の全ての薩摩武士達を統一しましたが、サラシを胴に何重にも巻く事は、
・胴を締める(甲冑を腰で締める事により重みを腰に分担し肩の負担が軽減させ、更に動きやすくなる。)
・刀を固定する
また何重にも巻くことにより胴と刀の傷を防ぐ効果があり、更に木綿持参の軍律が出来る程重宝されたのは、例えば戦場で敵に斬られてしまった時、直ぐに腰のサラシを一部切り包帯代わりに止血・防寒・防水等軍行中の日常生活に至るまで様々な用途に使えたからで、合戦中も直ぐに使用出来るように今回のような結び方にして、サラシの最後の余りを縄の様にねじりまとめ必要に応じて切って使う機能面と、しめ縄に見られる結界を表す呪術的な縁起を担いでいた意味合いを持たせていたと思われます。
この薩摩のサラシのこだわりは幕末から明治維新以降も薩摩武士達に受け継がれ、明治にかけてこの薩摩の兵児帯が全国に流行し、今でもヘコ帯は着物の帯として残っています。上野の西郷さんの銅像も兵児帯ですね。

白小袖
秋月黒田家の資料には、合戦前に武将達は死に装束として、新品の純白絹の褌、小袖をまとって戦場に向かったと残っています。純白は最後を飾る死に装束でもあり、戦場で傷を受けても破傷風等を防ぐ為により清潔なものを着ると機能的な意味もあったと理解して、私も自信甲冑を着るときは常に綺麗な白小袖を着るようにしていますので、今回一部は戦いで汚れた薩摩武士達はいるものの、出来るだけ綺麗な白の小袖を皆着ています。